2019年4月30日:平成最後の野球日和 in 芝公園野球場

四回表「さよなら、ライオンズ」

四回表「さよなら、ライオンズ」

白い砂地のグラウンド。
帽子をかぶった子どもたちが、白髪のおじいさんたちの投げたボールを打ち返している。
人数が極端に減ってしまったが、私の生まれ育った町でも、まだ快音は聴こえている。

学年が四つ上の兄が少年野球をやっていたので、小学校に入学したばかりのまだふらふらな時期から、私はグラウンドで躍動する男たちの様子をじっくり観ていた。
二回り以上大きい高学年の子どもたちである。その時はみんな巨漢にしか見えなかった。
実家から徒歩二、三分でたどり着く、猫の額のようなグラウンドに毎日通いながら、男たちのプレーを一年ほど観続けた。
二年生になって、いよいよ入団を認められ、監督からボールを握らせてもらえると、生まれてはじめて全身に“血”が巡った気がした。
背番号は18。サイズが小さかったのか、エースナンバーが余っていたので、今後チームを背負って立つ気持ちで、迷いなくユニフォームに袖を通した。
しかし、下っ端のチビが、まともに相手をしてもらえる訳がない。
一番小さくて初心者の自分が、兄たちの中で食らいついていくのである。生半可な態度では生き残れない。ましてや、キャッチボールの相手は毎回S監督だ。研ぎ澄まされたように、一球一球、投げては打って、男たちの背中を追いかけた。

小学校三年になると、少しずつ試合に出してもらえるようになった。
ここで、我が草水(くそうず)ライオンズに激震が走る。
大人の事情か何かでS監督がクビになった。代わりに、新しく町内に引っ越してきた子どもの父親が経験者ということで、突如首脳陣が入れ替わったのだ。
S監督はなかなか手が早い方だったので、後ろ向きなプレーをしたする選手の頭を、帽子の上から「スパコーン」とよく叩いた。たまにヘルメットの上から「ゴッチン」とバットでど突いてもいた。今の親たちが見たら警察沙汰とかになるのだろうか。
側からみていた私には、S監督の行動に愛のようなものを感じた。決して、ただ私的な感情をぶつけるのではない、「お前はそんなもんじゃないだろう!」と、選手の目を醒ましてあげているように見えた。
逃げるな。
試合の勝ち負けだけではない、男の勝負にこだわり続けたS監督はチームを去った。
彼がいなくなったことによる失望感は大きかった。毎日シラフではないような感じで接してくれるSさんを、みんな心から慕っていたのだった。

それからのライオンズは、全く咆えることのない猫のようなチームになってしまった。
子どもながらにして、「いきなり登場してなんだそのデカい態度は」という気持ちが、新監督に対する不信感を煽った。
兄たちの時代のような、激しくほとばしるような“覇気”が消えた。
闘将が消えたことにより、チームはそのまま崩壊の一途を辿った。
子どもはいつも無邪気であるが、恐ろしい。
当時の草水町の子どもたちはとにかくやんちゃだった。体格もよく運動もできる番長クラスがわんさかといた。他の町内の子どもたちを寄せつけない力があった。当然、悪さもする。一度スイッチが入ると手がつけられない猛者ばかりだったのだ。
悪ガキたちの有り余る力を、野球というスポーツに一点集中させることができていた。しかしそれは、Sさんを中心とした、“漢(おとこ)”の哲学を背景とした野球だった。
それなりに覚悟してきたであろうに、背景を知らない若い新監督には、相当気の毒なことだったと思う。なんというか、こう、ライオンズは爽やかなチームではなかったのだ。
昔、石油が取れたことにちなんで「草水(くそうず=石油が糞の渦みたいだからと聴かされた)」と名付けられた地名よろしく、もっともっと泥臭いところでプレーしていたのだ。
そういう訳で、不良少年たちをいきなりまとめられるほど、現実は甘くなかった。
新体制で臨んだチームは、結果も振るわず、一年で解散した。

こうして十歳の私は、はじめて野球浪人となってしまったのであった。

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