2019年4月30日:平成最後の野球日和 in 芝公園野球場

四回裏「十歳からのフリーエージェント」

四回裏「十歳からのフリーエージェント」

草水ライオンズが、解散した。
監督が交代したことによって、やんちゃ過ぎる少年たちの統率が取れなくなり、内部崩壊。
結果、試合もボロボロに負けることが多くなり、チームを維持することができなくなった。
兄が入団したことにより、野球というスポーツを知った。
小学校一年ではボールに触れられず、ひたすら見学。二年生になったら、やっとキャッチボールをさせてもらえた。三年生になって、やっと代打で試合に出場できるようになった。よしこれからだぞ、と思っていた矢先に、チームが消滅した。

三年目の夏は、グラウンドに立つことはなかった。
暇だったので、毎日自転車を漕いで裏山を越え、そのまま市民プールへダイブしていた。平泳ぎが得意だったので、片道50mを何往復もした。プールから上がって、爽やかな夏の風を感じながら、「今日は1㎞は泳いだな」などと言って、最寄りのKOMERIで一息つく(当時はゲームセンターなどもあって子どもの溜まり場であった)。そこで新潟県のB級グルメである『イタリアン』を胃袋にかきこんで、クリームソーダをがぶ飲みして家に帰る。腹の中をちゃぽんちゃぽん揺らしながら、また家まで自転車で爆走する。
このルーティンを一ヶ月ほど続けていたら、夏休みが終わってしまった。
秋になっても、なんとなく日々を遊んで過ごしていた。友達と遊んでいるので、楽しいのは、楽しい。しかし、なにかが抜けている。心が張り合いを求めていた。
男の戦場。修羅場へ。
自然と身体が、グラウンドへ動いていった。

四年生になった。まだまだ抑えの効かないやんちゃ坊主だった。
同じクラスで仲良くなった、これまたやんちゃなT君が、別の町内で野球をしていた。
新町ジャガーズ。未知の球団だ。
解散したライオンズからも、先輩が一人加入していた。早速、見学をしに行った。野球がしたいと思った。
このままだとこいつは危ないと察知したのか、親もすぐに認めてくれて、入団が決まった。
新町という場所は小学校からは近いが、家からはそれなりに遠い。子どもながら、気持ち的には完全にアウェイでプレーすることになる。親もはじめは気を遣ったことだろう。野球でも何でも、習い事で誰が一番大変かというと、その子どもに付き添う親が一番大変なのだ。今さらだが、父親も母親も、よく付き合ってくれたと思う。
かくして私は、別の少年野球チームに移籍し、黒字にオレンジラインのユニフォームに袖を通した。背番号は、何番だったか覚えていない。最後は1番をつけていたと思う。

ジャガーズでは、監督が素晴らしかった。
「のびのび、野球をしよう。のびのび、やろう」
それがM監督の口癖だった。口癖というか、子どもたちを萎縮させないために、自他ともに言い聞かせていたのだろう。
どのスポーツもそうだが、経験者である親が、上手くできない子どもに向かって、やたらめったら怒鳴りつける場面はよくある。『巨人の星』の野球観が、まだ根強かったのだろうか。それとも、日々のストレスのはけ口にしていたのだろうか。子どもながらにして、この人はただムカついただけなんだなとか、この人は本当に自分を思ってくれて言っていると、色々感じたものだ。私も言葉には出さなかったが、よく態度に出して楯突いていた方だと思う。
あと、「何でウチの子は試合に出られないんですか」と詰問してくる親。
私も新町ジャガーズに途中加入の身ながら、何度も試合に出せてもらったりしていたので、自分の知らないところで、親も監督も色々言われたと思う。しかし、M監督は親にも子どもにも誠実に対応しながら、選手の自主性を重んじてプレーさせてくれた。

少年野球こそ、まずは野球を心から楽しんで、好きになること。
楽しいのと、“お遊び”になることの境界線を引くのは難しい。叱るところは叱らないといけない。ただ、怒鳴りっぱなしでは、子どもでも納得いかない。なぜ今のプレーが、その態度が駄目なのかを、子どもに対してわかるように伝える努力をしなければならない。子どもでも、大人でも関係ない。相手に対して気持ちを伝えようとする姿勢が大事だ。大人も人間なので、感情的になることはある。でも、相手を思いやる気持ちが根底にあれば、そこは子どもにも伝わるものだと思う。むしろ子どもだからこそ、純粋なものとして伝わる気がする。
確かに、楽しくやっているだけでは、技術的に上手くいかないことは多い。闇雲にプレーしていても勝利に繋がらないのもわかる。しかし、それはあくまで選手自身から溢れ出す闘志、上手くなりたいという自主性が育まれて、そこではじめて技術的な指導が活きるのではないだろうか。今になって思うところは多い。思うだけでは駄目なことも承知している。一番苦労しているのは、いつも現場に立ち続けている指導者だ。
「やらされる野球なんて駄目だ。そんなのつまらないだろう。もっとのびのびやろう。思い切りプレーしよう」
今ならM監督が言い続けた言葉の心情が分かる気がする。もちろん、当時から監督の信頼は厚かった。大会後の食事会で、選手一人ひとりに声をかけ、それぞれのプレーを労ってくれた。本当に、あの時代には珍しい指揮官だったと思う。

月日は流れ、新町ジャガーズも人数不足により、解散してしまった。
無論、他の町内の球団も全て無くなった。今は、学校単位で少年野球チームを形成しているようだ。しかし、きっとM監督は今でもグラウンドに立って、子どもたちに野球の楽しさを伝えようとしていることだろう。本当に、野球愛に溢れた素晴らしい監督だった。
小学校を卒業するまで、ジャガーズで三年間プレーした。
チームとしても、個人としても、大した成績は残せていない。
当時はピッチャーよりも、キャッチャーやサードを守っていたように覚えている。
高学年になると、打撃では4番を任されていたが、一つ上の先輩が一人しかいなかったのと、単純に体格がよかったからだけだと思う。
不良少年たちが築いたライオンズの遺志を受け継いでいたので、やんちゃに負けん気だけはあった。
技術的には全く無知で、とにかくがむしゃらにボールを投げ、バットを振っていた。
何で負けたのかも、深く考えていなかった。
図らずとも、野球浪人したことにより、グラウンドでプレーできるだけで満足していたのかもしれない。
あそこで腐らずに、また野球をさせてもらえて良かったと思う。
少年野球時代は、のびのびやらせてもらえた。野球を嫌いにならなかった。
みんな、ありがとう。

そして、私の野球人生でも、大きなターニングポイントとなった三年間へ。
怒涛の中学時代に突入していく。

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