2019年4月30日:平成最後の野球日和 in 芝公園野球場

五回裏「美しく輝く怪物たち」

五回裏「美しく輝く怪物たち」

中途半端な不良だった。
結果がついてこないと、校内では肩身が狭く、部内は荒れた。
三年生が夏を待たずして敗退。最後の予選がはじまった六月半ばに、早々と引退した。
残されたNG中学野球部は、二年生が十名にも満たず、私を含む一年生が十五名にいて、二十数人での新体制となった。
監督のI先生の腰痛が長引き、暫定的にヘッドコーチから監督代行となった鬼のMさんは、普段の仕事があるので、毎日練習を見ることはできない。
特に、雨の日などは室内での筋トレが中心になるので、なんとなくサボりがちな中身の薄い練習となっていた。
そのうちに、二年生の先輩が一人、複数の部員にからかわれ(私含む=最低)、精神的に疲れて退部。
からかっていた一人であるキャプテンも、口が過ぎていじめの対象になり(私含む=最悪)、半強制的に降格。
最後は、一番いじられ慣れている控えの先輩が、形だけのキャプテンになった。

悪しき伝統を受け継ぎ、しっかり荒れていたが、一つ上の先輩である二年生は、私の代とは違って、少数精鋭部隊だった。
タイプも違う、個性的で良い選手が多かった。それだけに、今思えば、不運としか言いようない代だったと思う。
私がこよなく愛する野球漫画の一つ『ルーキーズ』に、「船頭多くして船山に上る」ということわざが出てくる。
新チームの主力たちは、まさに個々の力は充分あるが、それが裏目に出てまとまらなない、上手いけど勝てないチームの典型であった。
今でもふと思い出しては、もったいない選手ばかりだったなと思う。
プロ選手になれると太鼓判を押された人もいるし、高校でも活躍できる素質がほぼ全員にあった。

まず、エースと四番の二人が、突出していた。
体格も良く、下級生ながらベンチ入りし、エース級の活躍をしていたKさん。
伸びのある直球と、切れ味の鋭いスライダーを中心に、上級生を相手に三振の山を築いていた。
「野球というスポーツの、勝敗の七割は投手である」とはよく言われているが、Kさんが投げればまず大量失点することはなく、とにかく点を取れれば勝てるチームだった。
しかし、Kさんはとても控えめで、寡黙な人で、歴代の不良野球部の中では、優等生過ぎるタイプの選手だった。
絶対的エースなのだけれど、主張がほとんどない。そのため、抑えの利かない主力に振り回される傾向が強かった。これも噛み合わなかった原因の一つだと思う。

次に、中学生ながら、漫画でいう範馬刃牙のような、男でも惚れ惚れする肉体を持ったSさん。体操選手かと思う天性の柔軟性と、走らせれば圧倒的な瞬発力、バットを振れば軟式ボールで軽々と柵越えを連発するパワーも兼ね備えていた。
私がいうのもなんだが、敢えて炎上を志願してと書かせていただくと、KさんもSさんもプロになれなかったのは、あの頃、新潟県で野球を指導していた者全員の責任だと思う。

先に結果から述べると、エースのKさんは、今では甲子園の常連となった新潟県のトップチームに、I監督の尽力により、なんとか野球推薦で入れたものの、腰を痛めたか何かで、高校二年で退部。その後、檜舞台に立つことはなかった。
走攻守全てに秀でていたSさんは、県内屈指の厳しさが噂される高校へ、これもI監督の尽力により推薦入学。しかし、高校の監督の理不尽なしごきにより(土下座を強要された説もあり)、二年時に自主退部。彼はそのまま学校ごと辞めてしまった。
手痛い失敗、二度とやり直しの利かない失敗を経験するからこそ、人間的成長があるのはよくわかるが、この二人に関しては、あまりにも惜しい。
特に、天性のパフォーマンスを兼ね備えたSさんについて、私が死ぬ前に、時代の証言者として、ここに書き残したい。

実は、Sさんとは同じ町内出身で、少年野球から同じチームだった。
草水ライオンズが解散し、行き場を失った選手の一人で、彼は私と別の町内のチームに移籍して、野球を続けていた。
先にも紹介した通り、スポーツにおける全ての分野に優れていた彼は、選んだのが野球でなかったとしても、優れた成績を残せただろう。
当然、喧嘩もべらぼうに強かった。
小学生の時、ジャイアン過ぎる彼に、小ジャイアンである私が、流れで闘いを挑んで、ボコボコにされたことがある。
Sさんは根が優しいので、喧嘩の後、私をいたわってくれるようになり、よく遊ぶようになった(しかしそのほとんどが悪業だったように記憶している)。
そんなSさんが中学でも野球をやっていて、私のテンションは上がった。
普通にバク転や跳躍をしまくっていたので、陸上選手か体操選手にでもなるのかと思っていた。
しかし、北斗の拳に憧れて七歳くらいから筋トレを始めた彼は、阪神タイガースにいた新庄剛志選手が好きだった。
今はバリ島にいる新庄さん、ありがとう。あなたのおかげで、金の卵が野球界に流れ込んだのだよ。

学生ではよくあることだが、Sさんは陸上大会にも助っ人として、よく借り出されていた(もちろんエースのKさんも)。
中学時代は、たまたま私も助っ人として雇われたため、選抜リレーの代表となり、Kさんからバトンをもらい、アンカーのSさんにバトンを渡したりもした(が決勝で渡しそびれて相当落ち込んだ)。
しかし、本分は野球である。
一人でレーンを走り栄冠を掴むよりも、チームプレーに貢献することに、彼は情熱を注いだ。
とにかく足が速くて、誰よりも打てるので、Sさんは打順でいうと一番で、守備位置は外野のセンターを守った。
ピッチャーもできなくはなかったが、たまたま同世代にKさんという選手がいたために、野手に専念したということだった。
彼は誰よりもバットを振り続けた。

強烈に印象に残っている試合がある。
近隣の中学校との練習試合での事だった。
新しくできたA中学校のグラウンドは、よくある陸上部との兼用で、普通の野球場とは違い、外野のフェンスがなかった。
よって、打ったボールが外野の頭を抜けても、広いグラウンドの中では、どこまでもフリーゾーンというルールが適用された。
丘を上ったところに建てられたA中学だったので、グラウンドの先は斜面を越えての森、というか、山である。
突如、鋭いスイングが、一閃された。
Sさんが打った打球は、外野の頭、遥か上空を超えて、遠くの山中に消えた。
おそらく、後にも先にもあのような打球を飛ばした十四歳は、あの地域に現れないだろう。
軟式の打球が、山に消える。
誰もそんなことは想定していなかったので、Sさんの打った打球は、東京ドームの屋根に当たって落ちてきたボール同様、なんとなくの二塁打扱いとなった(当時はアウェイ過ぎる判定にかなり腹を立てた)。
しかし、あの日現場にいた誰もが、あの怪物級の放物線を、目に焼き付けたことだろう。
試合後に、相手のチームの監督が、こう囁いたという。
「あんな打球、生まれてはじめてみた。彼のような選手をプロにすることが、新潟県の全ての指導者に課せられた使命だ」
相手のY監督は、後に私の師となるYさんの実弟であり、甲子園経験者だった。
後にY兄弟は、新潟県の中学野球選抜チームの指導者として、全県の中学生の育成に多大なる貢献を果たす(ちなみに、県勢ではじめて甲子園の決勝で投げたあの投手と、現在プロで活躍する横浜のあの投手も、高校進学前に、Yさんたちの指導が多少なりとも入っている)。

それから時を経て、成人してから、Sさんと何度か一緒に草野球をさせていただいた。
筋肉隆々、というより、非常にスマートな体型で、機敏に身体を動かしていた。
後に詳しく書きたいと思っているが、私も高校野球を途中で辞めた人間である。
主砲のSさんと、エースのKさんと、たとえ無名の弱小校だったとしても、同じ高校で野球を最後まで続けられていたら、それぞれにどんな未来が待っていただろうか。
そんな空想を未だに見るほど、その時、彼らは野球選手として、美しく、輝いていたのだ。

誰よりも早くグラウンドに駆けつけ、誰よりも遅くまでバットを振り続けていたSさん。
ある朝、いつも通り五時に起きて、六時前にグラウンドに着いて、部室の扉を開けると、Sさんが寝ていた。まさか、泊まり込んでいたのか。
「おう、おせえぞ」
私は苦笑いしながら、ボールをホームベースまで持ち運び、起き抜けの怪物に、トスをした。

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