2019年4月30日:平成最後の野球日和 in 芝公園野球場

六回表「不良を変えた、元不良」

六回表「不良を変えた、元不良」

試合ができなかった。
NG中学野球部は、最近でいうところの、風評被害にあっていた。
あの野球部は、喧嘩っ早くて、すぐに乱闘騒ぎを起こす。選手を威嚇する。勝ったら何をされるかわからない、など、噂が噂を呼んで、試合の申し込みを断られ続けていた。
三年生が抜けて、新チームとなり、私が上手かったというよりも、一つ上の学年の先輩が少なかったので、ファーストのポジションを任されるようになった。
いま思うと、何ひとつチームに貢献できない後輩だった気がする。

秋の新人戦では、格下の相手に敗退。
アンダースロー、いわゆる下手投げの投手に、野手として秀でていたSさん以外は、完全に抑え込まれてしまった。
想定していなかった、相手の能力。
戦術もなく、出たとこ勝負の坊主たち。
個々の実力は高いのに、なぜか負ける。
練習試合は、数えるほどしかできない。
そのまま、なんとなく、なんとなくで進んでいく練習。
中二、中三といえば、部活だけでなく、当然、異性にも関心を持ちはじめる。
女子生徒が待っているからと、自分も含め、部活を早退するような輩も出はじめた。
新潟の閉ざされた冬は、室内での筋トレが中心で、試合が本当に遠かった。

年が明け、春になり、勝負の季節が近づいていた。
昨年、成績が全く振るわなかっただけに、体格の良い男子の多い野球部に、教師たちからも期待は寄せられていた。
汚名返上。
去年までは、たまたま運がなかっただけだ。今年は違う。
根拠のない自信が、不良たちを支えていた。
しかし、その地盤は脆弱で、冬の間にせっせと基礎を固めていたチームに、惨敗。
エースのKさんも、大崩れはしないが、甘い球を打ち込まれた。
バッターは、Sさんが孤軍奮闘。
春の大会も、あっさり負けてしまい、文字通りの絶望感が、部内に立ち込めた。
要因は、様々である。
監督である顧問のI先生が、重度の腰痛などで、春から本格的にチームを離脱。
外部コーチとして、鬼軍曹的な指導をしていたYさんが、監督代行に就任。
噛み合えば勝てそうなだけに、監督業に抜擢されたYさんは、本当に頭を悩ませたと思う。
どうすれば勝てるんだ。
強いはずのNG中には、もう夏の大会しか残されていない。
格好ばかりの自分は、試合に出させてもらっているのに、全く結果を残せていない。
もう、なりふり構ってはいられないと思った。

私は、野球部の同級生にお願いして、ある人に会いに行った。
「Tさんに、折り入ってお願いがあります。僕に野球を教えてください」
単刀直入に切り出した。
Tさんは(前回「師となるYさん」と書いたが、Y監督と重複するためTとする)、少年野球時代に、別の町内のチームの監督をされていた。
小学校では大人しい同級生に、なぜか試合で勝てなくて腹がたった。
よほど力押しできない限り、Tさんのチームには勝てなかった。
実は、中学に上る前の冬に、仲のいい同級生を通じて、間接的にTさんから練習に誘われていた。
しかし、そんな暇はない、と私はこの誘いを突っぱねた。
なんとなく、敵だった人に教えを請う、みたいなのが嫌だったのだ。
温室育ちのガキ大将の、詰まらないプライドである。
その砂上のプライドが、やっと崩れたのが、中二の春だった。
自宅の玄関に突如現れた私を見たTさんは、切れ長の眼を少しだけ丸くし、瞬間、眉間に力が入った。
「覚悟は、あるか」

振り返ると、私がNG中学野球部に、一番貢献した事といえば、Tさんを軍師として招集できたことだと思う。
まさに、ただの外部コーチではなく、軍師だった。
結果的に、野球部は年々着実に力をつけて、毎年少しずつ成績を上げていった。
田舎の公立校であり、少子化と野球離れの波もあって、地区大会から県大会までの道のりは厳しかったようだが、私が卒業して数年もすると、NG中野球部の扱いは驚くほど変わっていた。
「いつ県の代表になっても、おかしくない。それだけの実力と、礼節を持った野球部」
私が入学した頃から考えると、野球部がそんなふうに言われるようになる日がくるとは、誰一人として想像できなかっただろう。

チームとして強くなったということは、当然、個々の能力も高くなったということ。
私が中学最後の夏の大会で敗れてから、奇跡的に、AA(当時Kボールと言われる軟式球よりも少し硬い球を使った全国大会)の県代表に招集されると、それ以降は毎年NG中から主力選手が選抜されるようになった(当時は県大会までに負けたチームの有力選手が選抜されたが、年を重ねるごとに狭き門となり、今ではセレクションなどの審査がかなり厳しくなった)。後に、Tさんはこの新潟県選抜の監督を打診されるほど、指導者としての腕を上げていくこととなる。

さらに、私が中学を去った後に、県の選抜選手としても活躍した一つ下の後輩Kは、高校では甲子園に行った。
また、二つ下でエースとして中学生の地区大会で完全試合をやってのけたAは、甲子園常連の新潟を代表する高校に、特待生扱いで入学した。
もう五、六年前になるが、新潟で一番の進学高校が、県大会でことごとく強敵を撃破し、夏の準決勝で王者の日本文理高校を追い詰めた年があった。
こういう年は、絶対に監督とエースがいいんだよな、と思って新聞をちらと見たら、監督は何度か公立高校を強豪にした実績のある教師で、エースはなんとNG中学出身と書いてあった。
名前をよく見たら、久しぶりにTさんに会いに行った時に、下級生なのに一人試合に出ていたあいつではないか。
なかなか表面には出てこないが、TさんがNG中学野球部の指導者として、数々の選手を育成し、Y監督の補佐をしながら実績を残したことは確かだ。
まさに野球部の歴史を変えていく改革が、私が在学中に始まったのだった。

Tさんの過去のことは詳しく知らないが、彼もNG中学の出身で、高校は近所の悪名高い高校で、数々の抗争を経験し、相当な武勇伝を持っているらしかった。
ある日の練習後、Tさんが煙草を吸って一服しながら、少しだけ昔話をしてくれた。
どうやら私の二つ上の先輩の父親と同級生だったようで、
「あいつの親父には、土壇場でかばってもらって助けられた」
と、極道がノスタルジックに語る雰囲気があった。
並大抵の人ではない。
やるからには徹底してやる人だ。
覚悟。
男が決めたことは、最後まで貫き通す。

Tさんから教わったことは数が知れない。
少年野球で、野球の楽しさを覚え、中学野球で男の勝負を知り、負けて挫折。
上手くなるためには、強くなるためには、どうしたらいいのか。
頭を使って、考えて準備をする。
基礎を固めて、柔軟に戦いに臨む。
Tさんに頭を下げたあの日。
そこから私の本当の野球がはじまった。

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